20.優しい目で見た世界

扉の閉まる音が、古びた店内に響いた。
ミラはその音がした方をじっと見つめて何か一言だけぽつりと呟いたが、扉をすり抜けて行ったその人には届かなかったに違いない。部屋の明かりが揺れるのに合わせるように、ミラの瞳の色がまた不安定に揺らめく。

しばらく一点を見つめて動かなかったホフマンが、不意に顔を上げる。彼の細い髪がはらはらと頬を滑り、隠れていたその表情があらわれる。
ミラはふと、ホフマンと初めて目が合った日のことを思い出していた。再会するはずのない二人が再び出会ったあの日、この店で見た彼の紫の目はとても印象的だったが、今日はあかりを反射しているのか、あの時よりずっと輝いて見える。
まるで生きているみたいだと思いながら、ミラはぼんやりとその目を見つめた。

ホフマンは困ったような顔をして、それからゆっくりと首を横に振る。

「私はカミラのことを愛していた。それは確かに間違いないですが、ミラはひとつ間違っています。」

ホフマンの声色は、蓋をして隠していた過去を開け放たれたとは思えないほど穏やかだった。外見の割に大人びたその声がいつもにも増して落ち着いていて、ミラよりずっと年上の男性のように聞こえる。

「ミラのことが大事なんです、今の私は。こんなにも心から愛しているのに疑われるのは心外です。」

ホフマンはここでずっと待っていた。あの日カナリアが残していったこの結界の中で、愛する人とまた巡り会える日を。
固く閉ざされたこの店の扉を開け放ったのはカナリアが願った通りの人物ではなかったが、それは偶然にもカミラが遺したミラという特別な人だった。
あの日、左右違う色に輝くミラの目を見た時から、甘いバウムクーヘンの匂いが鼻をかすめていった時から、その髪先に触れた瞬間から、止まっていたホフマンの時はゆっくりと進み始めた。ミラは過去の人と同じ顔で笑わないし、同じ言葉を紡がない。彼女の面影を確かに残すその顔で意地悪く笑うのも、少し乱暴な言葉で楽しげに話すのも、嫌だと感じたことは少しも無かった。ミラは、彼女とは別の存在なのだから。

「マジで言ってんの?改まって言わないでよ。」
「本当ですよ。カミラより愛嬌があって、危なっかしくて。」

ホフマンが冗談めかして笑って見せると、ミラは珍しく照れたような表情をしてぷいと顔を背けた。
胸がドクンと大きく鼓動を打ち、ホフマンははっとそれに手を当てる。今まで曖昧だった生きている感覚を急に思い出したような気がして、何だか懐かしく、むずかゆい感じがするのを、ホフマンは不思議に思った。

「私はこの体でカナリアと共存していた間、夢の中で彼女の記憶を見ていたようです。カミラはカナリアを救おうとして、彼女なりに努力したんでしょうね。」

ホフマンがひとつひとつ、その目を通して見た過去を語り始める。

カミラはカナリアを研究に巻き込んでしまったことを後悔して、彼女を救うために己の心を殺した。望まない未来を選ぶことで、せめてカナリアの命だけでも救いたいと願った。

カナリアは己の存在が人々を狂わせてしまい、大切な人たちの幸せを壊してしまった。彼女は自らに課せられた罰だと思って、生きたまま死ぬことを受け入れた。

ホフマン自身は、きちんと思いを告げずにいたことで、カミラに間違った決断をさせてしまった。それを自分一人の責任だと思い込み、自死を選んでしまった。

互いが互いに誰かの幸せを願って行動したつもりだったのに、うまく噛み合わなかった。それは考えたことを言葉にせず、一人で決断してしまったからだった。互いの立場になってよく考えてみればわかることなのに、体と心が生きてさえいればやり直すことはできたはずなのに、自分は許されないと勝手に思い込んで、心の檻の中に閉じこもってしまった。
思えば、誰が悪いとかではなくて、本当はみんな誰かのことを愛していて、少しの掛け違えでこうなってしまっただけなのかもしれない。
ミラやゲラルトとは全く違った視点で語られるその過去は、とても優しいものだった。
過去に苦しめられて生きたミラが全てを許せたわけではないが、ミラは初めて母親にほんの少し同情した。思えばその恨みの気持ちすら、他人から見ればくだらないものなのかもしれない。

「私達は過去に囚われすぎていたかもね。これから先、どうにだってできるのに。」
「その通りですね。」

二人が示し合わせたように、扉のあった方を向いた。
そこには何も無かったが、二人はその先にあるだろう光景、そこに居るはずの人を想像していた。彼のことだから無駄話などするはずもなく、今頃、一切妥協のない殺し合いが始まっているに違いない。ミラにもホフマンにも理解のできない、戦いに身を置く彼だからこそ選んだ道だ。

「ゲラルト様は、大丈夫でしょうか。」
「さあね。死にに行ったんだ。私もあの人の考えてる事はよくわかんないよ。」

ふと足元へ視線を落とすと、ミラの頭を色んな考えが巡っていく。
長年その結界を打ち破ることすら出来なかった人間が単騎でかかっていって、神にも等しい小鳥を殺すなんていうことが、本当にできるのだろうか。
ミラは胸のあたりが押しつぶされるような嫌な感覚を覚えた。できないとわかっているなら、運命が決まっているなら、あの扉の向こう側に行くのは誰でも同じだったのに、自分はこっちで生きることを選んで、彼を手放しで送り出してしまった。それは遠回しに死んでこいと言ったのと同じではないのか。

まさに無謀としか言い表すことの出来ない勝負。
たとえ引き止めたところで彼は行くのをやめなかっただろうし、そういう人だからこそミラは全てを託すことができた。そうとはわかっていても、ミラはここで彼の淹れたコーヒーが飲みながら、くだらない話をしていたかった。

ミラは膝を抱えて座っていた。
両膝の上に顎を置き、今にも泣き出しそうな顔でぽつりと呟く。

「……帰ってくるまで、ここで待つよ。」

ホフマンがその隣に座り、まるで子供にするみたいに優しく背中を撫でると、ミラは自らの体を預けるように少し彼に寄りかかる。
時計が正確に時を刻む音だけがその空間を支配した。

「ええと。なら、しばらくはミラと二人きりですね。」
「えー…」
「おや。そんな気まずい顔をしないでくださいよ。」
「本気で私に惚れてるって知った上でだよ?気まずいよ。」

それもそうだ、とホフマンが明るく笑う。二人が触れ合っているところがほんのり暖かく、ホフマンは少し悩んで、背中をさすっていた手を肩にまわした。それは意外にも振りほどかれることなくすんなりと受け入れられ、ミラは少し首を傾けてホフマンの肩先に額を寄せた。

「今夜は語り合いましょう。これから先のことについて。」