14.七つ下がりの雨

黒い鞘に、黒い柄。刀身も暗く鈍く光るその刀の由来は知れない。
長く使われたものには魂が宿るなどと言うが、これはまさにそう言った類の物なのだろう。数限りなく血を吸った刀は、持ち主の精神を蝕んでいくような禍々しさを湛えている。

私がその刀を初めて目にしたのは、もう何年も前、まだ幼かった頃のことだ。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。

目を開けると、天井と薄暗い明かりが視界に入った。

見たことの無いその光景に酷く驚き、咄嗟に体を動かすと、いとも簡単に体が動くのだった。今思えばそれは極当たり前のことなのだが、いつも硬いベッドに縛り付けられて過ごしていた当時の私には、それが当たり前ではなかったのだ。
自由に動く体で何をすれば良いのかすらわからずに、無意味に手をふらふらと動かしては、それをじっと見つめていた。

「お、目が覚めたか?」

すぐ傍から聞き覚えのない男の声が聞こえ、ひどく驚いた。そのとき自分が何をしたかはよく覚えていない。次に気づいた時には、部屋の隅に小さくうずくまるようにして座っていた。

鈍い銀のような色の短髪に、濃紺の瞳。大きな体と不釣り合いなくらいに穏やかなその目が、私の姿を真っ直ぐに見ていた。まるで化け物を見たかのように瞬きもせずじっと動かない私の姿を見て、男は少し困ったような顔をしたが、瞳はとても穏やかなままだった。

「怖がらなくていい。ここは俺の家だ。施設の中じゃないぞ。」
「……」
「お腹すいてないか?何か食べるか?」
「……」
「えーと、喋れないってことは無いよな…?」

私は黙り込んでいたが、それは決して意味を理解していなかったわけでも、意思の疎通を試みようとしなかったわけでもない。
長く人との会話というものをしていなかったせいで、なんでもないその問いかけにすら、何と言葉を返せば良いのかわからなかったのだ。
男は私がただただ落ち着きなく指先を動かしている様子をじっと見つめ、そして少し考えてから、また別の話を切り出した。

「俺は一刀。お前は…………そうか、名前が無いんだったな。」
「……」
「よし、じゃあ落ち着いたらみんなで呼び名を決めようか。」

本当は名前が無かったわけではなく、生まれた時に付けられた名があったのだが、今更その名を名乗る気にはなれなかった。その名を呼ぶ者は、もうこの世の何処にも存在しなかったからだ。誰にも呼ばれない名など、もはや何の意味も成さないただの文字列でしかない。
研究所内で飼われる前、まだ名前があった頃の私は、ずっと狭い部屋に閉じこめられて育った。私の血の匂いが良くないものを呼び寄せるからという理由で両親がそのようにしたのだと、双子の妹だという少女から聞かされたが、その人もある日を境に私の前から姿を消した。

その頃のことを知る人間はもう居ない。
ある日突然、私のことを認識する人間全員が死んだその時から、私は誰の記憶にも居ない人間となった。
それはもはや、死んだも同然だった。

名乗る名の無い私は、目の前のその男と意思疎通をはかろうと言葉を探した。あれこれと考え、そしてやっと一言、これだと思う言葉を見つけだした。

「……いっとー……?」
「何だ!やっぱり喋れるんじゃないか!よしよし、こっちに……だめか……。」

名前を呼ばれて喜んだ男が、ぱっと表情を明るくして手招いたが、私はそれを見つめたまま微動だにしなかった。しばらく二人とも一言も発しないままじっと見つめあったが、私がぼんやりした顔で眺めているだけだとわかると、男は残念そうにがっくりと項垂れた。
悪意は感じなかったが、まだ自分から近付こうという気にはなれなかった。生まれてこの方、酷い扱いしか受けてこなかった私は、人との接触が酷く恐ろしいもののように思えていたからだ。どのように振る舞えばいいのかわからない私は、落ち着きなく部屋の中のいろんな所へ視線をうろうろと動かし、そしてやがて男の脇に置かれた黒い刀に視線を止めた。
禍々しいその刀は明らかに纏う空気が違い、見ただけでもそこに秘められた強い力を感じ取れるようだった。
私が魅入られたようにその刀へと手を伸ばすと、穏やかだった男がはっとしてそれを引っ込めた。

「これは駄目だ!触ったら心が蝕まれるかもしれない。前の持ち主も、その前の持ち主もそうだったらしいからな。」

私はその時のことをよく覚えている。
触れただけで人を害するその刀。刀自身がそうなりたいと願ったわけでもないだろうに、これまでその力を疎まれたり、利用されたりしてきたのだろう。それは自分の不遇な人生と重なるような気がした。
手足が自由に動いても、自由に喋れるようになっても、何をすれば良いのか検討もつかない私と同じで、その刀もまた、自分が生まれて何をするのか、その意味を探して渡り歩いているのかもしれないと思った。
その恐ろしい代物は今ここで静かに佇んでいる。この穏やかな目の男の手元で、共に生きることを決めたのだろうか。

私はその男の瞳を真っ直ぐに見つめた。

私がここにいるのは、単なる偶然ではないのかもしれないとその時思った。私と言う制御の効かない代物も、この人なら適切に扱えるのかもしれない、そんな予感がした。

私が恐る恐る手を伸ばし、指先をつんとつつくと、男は大きな手でその手を包み込んだ。

彼は強い人で、私はとても適わなかった。
隊には魔術を自在に操れる隊員もたくさんいたが、魔術を一切使えず、己の肉体ひとつだけで戦う彼に勝てる者は誰一人居なかった。
途切れることのない集中力、一点の隙もない完璧な立ち回り。極限まで無駄が削ぎ落とされた太刀筋を正確に捉えられる者など、この世には存在しないとさえ思った。

私は勝てないと知っていても、何度も彼に勝負を挑んだ。彼は私の目標であり、彼に勝とうとすることで少しずつ強くなれる気がしていたからだ。手加減を知らない彼に打ちのめされても何度も挑んで、入隊して何年か経った頃には私の実力は他の隊員を越え、その成長の早さに誰もが驚いていた。

「お前が俺に勝ったら、お前に隊長の座を譲ってやる」

彼が突飛押しもなく言った。
それに関わるような話をしていたわけでもない、ありふれた日常の中だった。

私はその意外な提案に目を丸くして、しばらく彼をじっと見つめていた。優しくて真面目な顔。冗談を言っているわけではないのはすぐにわかった。
彼はまた手元に視線を戻して、いつものように夕食の準備を進めていた。

私の実力を認めてくれたのかと思って、少しむず痒い感じがした。今思えば他に言うべきことがたくさんあったように思うのだが、その時の私は素直に言葉が選べなかった。

「へえ、言いましたね?後悔しても知りませんよ。」
「言った言った。」

彼は明るく笑い飛ばしたあと手を止めて、また私の方をじっと見た。

「でもな、ゲラルト。今のお前にはどう足掻いても無理だ。」
「何故ですか?」

何故、と言う問いに彼はいつものように穏やかに笑うだけで、答えなかった。

「お前が勝てるようになるとすれば、その答えが分かった後だろうな」
「何ですかそれ。俺はまだまだ強くなりますからね。」

強さとは、どれだけ相手の動きを見切れるか、集中できるか、自分の体を寸分の狂いもなく制御できるか、そういったことだと信じていた私はその言葉の意味がまったく理解出来なかったし、彼の気まぐれから出た言葉だと思ってさほど気にとめなかった。
私がその言葉を再び思い出す日は、その暫く後に訪れることとなった。

それは突然のことだった。
今でも鮮明に覚えているのは、その日がどうしようも無いほどの土砂降りの雨で、昼と夜の境目も曖昧なくらいに薄暗かったことだ。

「……嘘だろ、まさか……」

混乱してただ立ち尽くすだけの私は、ようやくそれだけ言葉を捻り出した。頭がぼーっとして、何ひとつ冷静に考えられなかった。

一刀さんが、死んだ。

聞かされたのはほんの短い報告だった。
帰りを待っていたその人の姿はどこにもなく、手元に返って来たのは黒い刀が一振り。ただそれだけだった。

そこではじめて、彼が、私を実験動物として扱っていたあの忌まわしい施設を殲滅するための作戦についていたことを知った。
感情の整理もつかないままの私は、なぜ国王がその事実を突然話し始めたのか考える余裕もなかったが、答えはその直後に知ることとなった。

「貴方が隊長となって、彼の任務を引き継ぐのよ。」

私は、はっと顔を上げた。
私が一度も勝てなかった人にさえ、出来なかったこと。自分が出来るとは到底思えず、私は俯いたまま黙り込んだ。

――そのとき、体に電流が走ったかのように、急に私は悟った。
強くなったと自負していた自分は、結局のところそこまでの人間で、いつだって彼に守られている弱い存在でしかなかったのだ。
そこには確かに甘えがあり、自分が出来ないことは何でも彼が解決してくれると思っていた。

そんな甘えた感情を持った私が、彼に適うはずがなかったのだ。

何度勝負をしかけても勝てなかった理由を初めて理解した私は、全ての感情という感情が冷え切って抜け落ちていくような感覚に襲われた。私はそれに抗う訳でもなく、ただ地を見つめていた。
あの人の居ない世界に感情など無意味だ。もはや悲しいとさえ感じられない。そこにあるのは先の見えない、終わりのない暗闇だけだった。くだらないことで笑いあったり言い合ったり、支えあったりできる相手はもう居ない。今となってはそんな感情は自分の行動を鈍らせるだけの塵に等しいとさえ思えた。

そう思った瞬間、私は目の前に置かれた黒い刀を手に取り、ふと顔を上げた。

「――必ず奴らを根絶やしにしてみせます。」

土砂降りの雨はまだ止む気配がない。
それは今でも確かに、心の中で止まずに降り続けているのだ。