(イシスアセトの王都から少し離れた名も知らない遺跡。誰かが頻繁に出入りする様子もない、しんと静まった空間に時折落ちる水滴の音がやけに響いている。暫く後、コツン、コツン、と靴のヒールが地面を打つ音がして、水滴の音を掻き消してしまう。)
ミラ「穢れ落とし、か。(明るい金髪を後ろに束ね、男性とも女性とも判断のつきにくい服装をして歩いてきた。その青みのある紅の大きな目がはっきりと開かれていないことが、心の内を表している。)はぁー…辛気臭い場所。さっさと用事終わらせて帰って、家にあったバウムクーヘンでも食べよ…。(その足がふと止まった。その先にある風景をただじっと見ている。)」
(ミラが見つめた先は遺跡の一部が水没していて、壊れた天井部から差し込む光でその水面がゆらゆらと光っている。底が見えそうなほど水が澄んでいるが、水面が揺れてはっきりと視認できるわけではなく、人の背丈ほどの深さがある。)
ミラ「(その水面に寄り、しゃがみ込んでじっとその中を見つめている。)ここかぁ。確かに水は綺麗だけど、何でここなんだろ。絶対なんか曰く付きの場所だわー…。やっぱり隊長誘ってくればよかった…。」
(またぽた、ぽた、と水滴の落ちる音だけがしていたが、不意に差し込んだ光が水中の何かに反射した。)
ミラ「(その一瞬の変化に気付き、水中を覗き込む。)……なんかある。えー…? うーーーん…。しゃーないなぁ。(履いていた靴を脱ぎ裸足になりながら、少し顔を顰めている。)ちょっと触ったら何か見えるでしょ。(足先を水につけると、想像していたよりずっと冷たく、その身を震わせる。)こういう意味で体張ることになるとは思わなかったな…。」
ミラ「(水の中に進んでいくと、徐々に水深が深くなっていく。)うーわ、全然届かないじゃん。潜れって…? ……。流石に嫌味言ってごはんでも奢ってもらうか…。(そう言う割には思い切りがよく、何の躊躇いもなく水中に潜って、光をはじいた何かに手を伸ばす。それなりの質量があり引き上げることはできず、ミラがそれに片手で触れたままいると、ふと意識が”そっち”に吸い込まれていく。)」
.
.
.
こぽこぽと水の音がする以外に、”これ”は何も見ていなかった。
長い長い空白期間がどれほどの時間だったのか、知る由もない。
.
.
水の音だけがする。
.
.
まだ、水の音だけ。
.
.
その空白の先、ふと開けたような視界の中にはミントグリーンの美しい長い髪をした線の細い女性が立っている。
女性は”これ”の持ち主に話しかける。
「向こうの世界にいたときは、私が悪で、貴方が正義で、それを演じて殺し合いをしていれば人間は納得していた。互いに血に狂っていただけなんて知らないで。いえ、知っていて、絶対悪がいることに安心していたのかもね?」
女性が大袈裟にため息をついて、不快感を隠すことなく表情に出した。見下すような視線の先にいた”これ”の持ち主は、ほんの少しだけ呆れたような顔をした。
「こっちに来てから貴方はずっと強くなった。でも、つまらない人間になってしまったわ。以前のように戦うことに狂っただけの貴方はどうしたの?」
「…護るべきものができたから。ただそれだけだよ、エリス。」
女性は暫く呆然としていたが、その言葉の意味をようやく理解して目を見開いた。その目には狂気が滲み、およそ普通の人間とは思えないほどに歪んだ感情が見えた。
「貴方のこと、この世で一番憎くて嫌いよ!!その気になればいつだって殺せたのよ。もう要らない!そんなつまらない貴方は今ここで死んでしまえ!!」
.
.
.
ミラ「ぷは、…!(水面から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。両手で体を乗り上げて水から上がり、足だけ水につけたまま縁に座った。)…何か変な記憶見えた…、何、あれ? 何十年とかいう単位で遡った…?」
「…ねえ、貴女。(ミラの座る後ろから声がした。突然そこに湧いて出たとさえ思うほどに何の音も気配もしなかった。)」
ミラ「…わっ!?(はっと振り返ると、そこには薄い緑の長い髪をした、今しがた記憶の中で見た女性がそのままの姿で立っている。)…あ、……え!?」
エリス「随分私のこと嗅ぎ回ってくれてるじゃない。それに触らないでくれる?困るのよ。(空中に浮く黒い長い杖に腰掛けたまま、顎で水中を指すようにした。)」
ミラ「…。………。(普段おしゃべりなミラが、思わず押し黙った。じっと目の前の女を見つめたまま、ぴくりとも動かない。)」
エリス「(瞬きさえほとんどしないミラの目をじっと見て)ふーん、貴女、賢女の力を持っているの?人間のくせに?」
ミラ「賢女…? ……カナリアのこと?(ほとんど睨みつけるような目で、いつもより低い声でぽつりと尋ねる。)」
エリス「あんな人を誑かす他に能のない下級の賢女、私は大っ嫌い。同じ括りに入れられるのも不愉快だったわ。(ふん、と鼻で笑って首を傾げ、ミラを見下すような目で見ている。)」
ミラ「やっぱり、アンタ、神域の………。(僅かに声が震えた。最も信頼する”あの人”さえ瀕死に追いやった存在を下級と言い放つエリスに、恐れを抱かないわけがない。)…向こうの世界って何。馬鹿にでもわかるように説明してよ。」
エリス「こっちの人間はそう呼ぶんだった?そーよ、私らは異世界側の生き残り。貴女、知りすぎたわねぇ?(目を細めてにやりと笑った。)」
ミラ「この場所を知る人が不自然なまでに居ないのは、アンタが、ってこと…。(苦笑いをしたミラの頬を水滴が伝う。それが濡れた髪から伝うものなのか、何なのか、もはやミラにもわからない。思わずその言葉の先を濁してしまう。)」
エリス「(わざとらしく肩をすくめてみせて)だったら何?私、こっちの世界のルールってよく知らないの。(挑発するように長い髪を片手の甲ですくいあげて笑った。)」
ミラ「んー、……じゃあさ、何であのクレシダって子は殺さないの?(その一挙一動を全て逃さないような鋭い目。さっき言葉を濁したのが嘘かのように、心を貫くようにきっぱりと言い切った。)」
エリス「………。(蔑むような笑顔が消えた。何とも言い難い表情でじっとミラを見て、何も言わない。)」
ミラ「あれの持ち主と似てるから?(に、と口の端を上げた。)」
エリス「……うるさいわね。(杖に座ったままのその足先が忙しく動く。仕草にも、表情にも、声にも、隠せない不快感が溢れてくる。)」
ミラ「ほーう?好きだったんだ?わかるんだよねぇ、私も女だから。男追っかけてはるばる異世界までやってくるなんで、アンタも健気だねぇ。(ニヤニヤと笑って見せるその顔には、どこか覚悟を決めたような潔さがある。)」
エリス「(周囲に黄緑の光が集まって、その背に集まった光と同色の羽が現れる。)うるさいわね!!お前も殺してあげる。声をあげる暇さえ与えないわ!」
ミラ「アンタとここで出会った時点で、私はもう詰んでんの。だったら私に出来ることって、アンタの心エグっていくことくらいでしょ?あーあ、馬鹿らし!一生ぼっちで生きてきな!(目を見開いて、目の前のその人を心底馬鹿にするように笑った。)」
エリス「私を侮辱したこと、後悔しなさい!貴女みたいな薄汚い女が何処でのたれ死のうと、誰ひとり悲しみやしないわ!!(羽ばたくように羽を動かすと、黄緑色の光の粒のようなものが飛び散り辺りを覆い尽くす。魔術師の使う術式とは全く異なるそれが何を起こすものなのか、人間には感知しようがない。)」
ミラ「(息を吸い込んだと同時に、その顔が歪んだ。)私が死んだら……、あいつらが、殺しに……くる。……アンタが、神域だとしても……、ね。(思わず胸の辺りをぎゅっと握ったが、その手の先の感覚も徐々に失われていく。やがてその体はゆっくりと地に倒れ込み、ひゅう、と苦しい息の音を立て始める。)」
エリス「…………。(何も言わずにただ、目の前で弱っていく人間を見下ろしたまま。その目には確かに困惑の色が見える。)」
ミラ「…………わたし、愛されてるんだよね。…………あんたと違って、ね………………。(それを最後に、何も言わなくなった。)」
.
.
.
(ある新月の夜、イシスアセト王都。雲一つない晴れ渡った暗闇が街を閉ざしてから、しばらくの時が経った。場所はマベの隠れ家、上階。)
マベ「(窓辺に立ち、月の見えない暗い夜空をどこか重苦しい表情で見上げている。)…………………。」
ミラ「(ベッドの上で横向きに転がって、静かに寝息を立てている。)…………ん、…………ん…………。(両腕がベッドシーツの上を撫でるようにして動いた。何かを探しているようでもある。)」
マベ「(静かな寝息に重なった衣擦れの音にハッと振り向いた。その動きに見えない目を見張り、急いでベッド脇に近付いて膝をついた。)……………………。(ミラを起こすでもなく、その動きを瞬き一つせず凝視する。)」
ミラ「(しばらく動かずに穏やかに眠っていだが、急に手をぎゅっと握った。)……やっぱり。………あんた、…………。(その先は唇がもにょもにょと動くだけで何を言ったのかよく分からない。)」
マベ「………………!(身体に触れたい、起こしてやりたいと逸る気持ちをぐっと堪え、その一挙一投足を見守る。ほんの僅かな息の漏れすら言葉として拾おうと、全神経を聴覚に集中させた。)」
ミラ「(徐々にその息遣いが荒くなっていく。何か悪い夢を見ているのは明らか。)わたし…、死んだ ら………あいつら、が、(ひゅ、と喘鳴に近い息を吸った。)……が、”神域”… ………(ハッキリと顔を顰め、寝ているのに思わず自分の胸の当たりを掴んだ。)」
マベ「……………!!(はっきりと聴こえたその言葉に大きく顔を歪め、たまらずにベッドの端を掴んで顔を近づけた。)……ミラ……!ミラ、起きろ!!(胸を掴むその手を握り、大きな声を出した。)」
ミラ「わたし、…………っ!! は、っ……!?(はっと目を開けた。特徴的な赤と水色の目の焦点が合わないままどこかをぼーっと見つめていたが、暫く荒い呼吸を続けているうちに目の前にいる人の姿を認識した。) はぁ……、はっ……う、……うわ、やな夢見た…………、(上体を起こそうとして、その首筋に汗がつたっていく。)」
マベ「…………。(無言のまま肩で息をして、ミラが完全に覚醒するまでじっと見つめている。握った手をそっと離し、上体を起こすのを手伝って。)………そうか。そりゃ怖かったな。どんな夢だった?」
ミラ「えー……、っと、知らない女に殺される夢……。(少し悩んでから答えたが、その素振りには違和感はない。大事な情報をひとつ抜かしていることを全く悟らせないような顔で。)あー、よかった……、一人でいる時だったら荒れてたわ……。(ぱ、と両手を開いて伸ばした。)」
マベ「ほー。そりゃイヤな夢だったな。(特に気にした素振りもなく、ミラの言葉をそのまま受け入れた。両手を伸ばされ、ベッドに身を乗り出した。背中に手を回し、その長躯で包み込むようにして抱き締める。)………知ってるか?逆夢っつってな。夢の内容が酷けりゃ酷いほど、現実じゃ良い事が起きンだよ。そのうちでけえ幸運が舞い降りるかもしれねえぜ?」
ミラ「逆夢かぁ。そういうもんなのかな。 私はそのうち訪れるかもしれない幸運より、今目の前にある幸福のほうが大事だよ。(腕を回してぎゅっとくっついた。) 後先のこと期待しながら待つのは、……あんまり好きじゃない。(大きく深呼吸した。やわらかな肌が少しだけしっとりと汗ばんでいる。)」
マベ「(背中に手を回し、指で優しく優しくとんとんと叩く。)そういうもんさ。うんと怖い思いしたぶん、いつか見返りをもらえるんだって考えりゃ、ちったァマシじゃねえか?………。(自分からも密着し、その感触を覚えるかのように、潤んだ肌に手のひら全体を這わせるようにして触れた。)……ま、そう言いなさんな。期待してもいいし、しなくてもいい。自分の気持ちに素直になるのが大事なんだよ。お前意地っ張りだからなァ?」
ミラ「国内一の意地っ張りに言われたくないんだけど……(小さく、くすくすと笑った。) 夢はどこまでいっても夢だよ。本当になるかどうかは、自分がどう行動するかによるでしょ。変えられるんだよ、いくらでもね。(ふと顔を上げた。)……ん、起きてたの?あれ、今何時だっけ。……私、いつの間にか寝てた?」
マベ「俺いつの間に意地の張り合いで国内トップ獲ったんだっけなァ?(目を細めて可笑しそうに笑った。)………そうだな。寝起きの割にイイコト言うじゃん。(顔を上げたその視線の先で、穏やかな表情を見せた。)おう、早いうちからうとうとしてたぜ。疲れてンだろ、そのまま寝ちまうか?」
ミラ「えー、私いつも結構イイコト言うよ? 誰にでも言うわけじゃないけどね。(穏やかな顔に安心したように、普段誰にも見せないような飾らない笑顔を見せた。)そうかも。ここんとこ用事があってあんまり休んでなかったから……。私、新月の日が休業日だからね。(ふふ、と冗談めかして笑った。)んー、そうしよっかなぁ。ごめんね、せっかく来たのに寝てばっかりじゃ、つまんないよね。」
マベ「……そうだな。…うん。……そうだ……。(誰にでも言うわけじゃない、そう言われて何度も頷き嬉しそうにしている。一緒に笑って、ふと息を吐いた。)そりゃご苦労さまなこって。働き詰めは身体に悪いぜェ?俺は用事を片付けて眠るから、お前はゆっくり睡眠。な?俺の気が変わらねえうちに。……なァーんてな!(そう言いながら、半ば押し倒すような形でミラを寝かしてしまおうとゆっくり体重をかけた。)」
ミラ「それもさあ、国内有数のブラックに務めてる人に言われたくないんだけど。(欠伸が出かかって、手で口を抑えて隠す。)疲れてるのにこれ以上”つかれる”の無理だよ……。わ、 もー、強引だなぁ……。(少し戸惑ったが、抵抗する様子はなくベッドに背をつく。ミラの長い黒髪がその上に乱れて広がった。)ねえ。用事って、……仕事でしょ。」
マベ「まったくだ、国家公務員はみんなのお手本になンねえといけねーんだけどなァ?……ま、…俺達はそういう役回りなんだろうよ…(あの時と同じように覆い被さった姿で、ゆっくりと時間をかけて目を細め、微笑んでいるのか悲しんでいるのかわかりにくい表情を見せた。)……うん……。”いってくる”。」
ミラ「お手本にはしにくいけど……、私はその生き様、好きだよ。
(何か感じるところがあったのか、しばらく黙ってその表情をじっと見つめた。)……そっか。私はいつも通りここで寝とくよ。 ……行ってらっしゃい。(目を細めて笑った。可愛らしい、と表現するのが丁度似合うような、ミラの一番の笑顔でそう答えた。)」
マベ「………そんなこと言ってくれる女、この世にはいねえと思ってた。(ミラの笑顔に、その頬を指で優しく撫でることで応えた。指先の神経から伝わる感覚に、胸の奥が熱くなる。表情を隠すように、額同士をそっとくっつけ。)ちゃんといいコで寝てるんだぞ?夜が明けるまでには帰ってくるからよ……、な…………?(そのまま、口付けを落とそうと。触れるだけの優しく長いキス。)」
ミラ「……ん?いるじゃん、ここに。(額をくっつけられて、その先を察したように軽く目を瞑った。)うん。大丈夫だよ、私のこと、は…………、(重なる唇の感触を、呼吸すら止まったかのように静かに受け入れる。その静けさがまるで永遠の瞬間のように感じられ、指先が覆い被さるその身体に少し触れた後、もう一度ぎゅっと抱きしめた。)」
マベ「(抱き締められ、それに応えるように自分からも腕を回す。閉じた瞼が微かに震え、そうっと目を開けた。惜しむように唇を離すと、目を細めて笑ってみせた。)……戻って来たら、もう少しカッコいい騎士様になってるかもしれねえぞ?……ま、期待しないで、待ってな。……………。(その髪に、肌に、心行くまで触れる。そうしてひとしきり腕の中の存在を確かめると、身体を離し、起き上がった。)」
ミラ「何それ。今のままでいいよ。(抱きしめた腕を離すと、それ以上のことはなにも要求しない。)………ん。違うかな……、今のままが好き。もうじゅうぶんだよ。(待っているとも言わないし、帰ってきてとも言わない。ただ、いつもの何気ない別れと同じように、もう一度穏やかに笑って、そっと目を閉じた。)」
マベ「……………ン。(短い吐息のように頷いた。ベッドの縁に腰を下ろし、その手で髪を梳くように頭を撫でつけた。)…おやすみ。ミラ、………。……………。(それ以上言うと何かが壊れてしまう気がして、言葉を継げなかった。指先に髪を絡めるようにして額から頬まで手を滑らせ、そうっと手を離した。音ひとつ立てずに立ち上がったもうその時には、その顔つきは全く別のものになっている。)」
ミラ「(手が離れてすぐ、ごろりと体勢を変えて背を向けた。)……おやすみ。(短くそれだけ言うと、深呼吸するように大きく息を吸って吐いてを繰り返す。幾度となく繰り返したこの別れに何も思わないではないが、きっとそのうち眠りにつくのだろう。)」
マベ「(背を向けたミラに自身も静かに背中を見せた。手早く着替え、掛けてあったコートに手を伸ばし袖を通す。ドッグタグを服の外に出し、ローテーブルに置きっぱなしだった黒眼鏡を手に取ったが、どこか愛おしむように見つめると、テーブルにそっと置き直した。)
………………。
(ほんの一瞬、その風を”彼女にだけ”向ける。光の無いその視界に、一人の女性の影が鮮明に浮かび上がった。きっと他の誰かが同じ世界を見ても理解できないだろう。自分にだけ見える美しい彼女の姿を、しっかりとその閉ざされた網膜の奥に焼き付けた。
最後に部屋の鍵を黒眼鏡の隣に置くと、ゆっくりと歩き出した。音はしないが玄関のドアが開いたのか、室内をふわりと風がそよぎ、家主の姿は完全に消えた。)」